江戸時代の俳諧師 松尾芭蕉の供養塚が、花園ラグビー場のすぐ側にあるので行ってみました。
下記は写真の立札の内容です
芭蕉碑
軸石に「芭蕉」、台石に「門人」と刻まれているが、建立の年代、建立者は不詳である。
伝承によると「暗峠を越えて大阪に向かった芭蕉(元禄7年<1694>、51才で没)が当地を通行中、急な病を得て暫らく当地に滞在し、その折、地元の人々に俳諧の手ほどきをした。後年、教えを受けた子孫たちが報恩のためにこの供養碑を建立した。」という。
また、「芭蕉の流派を継ぐ地元の門人の一人が、芭蕉の遺骨を分骨して建立した。」ともいう。
真偽のほどは定かではないが、おおよそ考えられることは、宝永元年(1704>の大和川付替工事で、当吉田墓地(当時は川中墓地と言われた)が、中九兵衛や河内屋五郎兵衛の手により開発され、 天保年間<1830〜44>、農民や町人が墓の建立を許された時期に、当時盛んであった吉田氏の監護する「富景桜」(当時の図書館)にゆかりのある地元の文化人たちにより、芭蕉の150回忌にあたる天保14年<1843>頃 に、この碑が建立された可能性が強い。
いずれにしろ、この碑は古来よりこの吉田地区に、文化・芸術の香がかもしだされていたことを物語る歴史の証左である。
吉田墓地管理委員会
平成14年7月 吉日 寄贈
大阪石材工業株式会社
また、東大阪市教育委員会発行の
一わが街再発見一
東大阪市の歴史と文化財
には供養塚のことが下記のように書かれていました。
ラグビー場の西側、旧吉田川の堤防上にある吉田墓地の中央入口付近にあります。
花崗岩質自然石の中央に「芭蕉」と深く刻みこまれ、台石に「門人」の文字が刻まれています。
市内には、他にも芭蕉の供養碑が残されており、暗峠越奈良街道をよく通っていた芭蕉と河内との結びつきを考えさせてくれるものです。
「おくのほそ道」で有名なあの松尾芭蕉の供養塚が花園に存在していたんですね。
旅の途中で体調不良になり大阪で亡くなった松尾芭蕉ですが、東大阪市にも石碑がいくつかあり東大阪市とも縁がある方だったようです。
供養塚を訪れ、立札を読んでみて、芭蕉と共に昔のこの花園周辺の当時の様子なども思い描くことができました。
※2025年7月時点の情報です。
住所:〒578-0924 大阪府東大阪市吉田4丁目9−62 吉田墓地内
この記事を書いた人:マチキシャ green
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